スタッフブログ
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週末、大工さん協力業者さんスタッフで鹿児島へ研修旅行に行ってきました!
今回の旅のメインは「知覧特攻平和会館」
1941年(昭和16年)12月8日、ハワイのオアフ島真珠湾にあるアメリカ海軍基地への奇襲攻撃によって始まった第二次世界大戦。 日本の陸・海軍主力は、真珠湾攻撃の後、東南アジアに進攻し、瞬く間にオーストラリア北側の線まで進出しました。
ところが、1942年(昭和17年)8月になるとアメリカを中心とする連合軍が態勢を回復し反撃に転じました。その後の日本軍は連合軍の強大な戦力に押され防戦一方になり、開戦から3年後の1945年(昭和20年)初頭になると、沖縄はもちろん日本本土も空襲を受けるようになりました。特に1945年(昭和20年)5月7日、同盟国であったドイツが降伏すると、連合軍の攻勢は日本だけに集中するようになり、日本全土が苦戦を強いられるようになったのです。
当時、日本政府は沖縄を本土の最前線と考え、その最前線を守るために採られたのが、特攻作戦でした。
特攻作戦とは、「体当たり攻撃」とも呼称され、250kg爆弾を装着した戦闘機の体当たりによって敵の艦船体を沈め、パイロットは必ず” 死ぬ・亡くなる” という『必死』条件の作戦でした。国のためにと身を投じた特攻隊には17歳という幼い少年もいたそうです。
もっとも多くの特攻隊が配属され、出撃したのが、この鹿児島県の知覧基地でした。
資料館には特攻隊が家族や兄弟、恋人へ残した遺書が多く保管されていました。
「これが最期の親孝行です。どうか悲しまず、よくやったと褒めてください。」
「弟と妹よ、お父さんお母さんのことは頼んだぞ。」
「わたしはもうこの世におりません。過去に生きてはいけません。どうか幸せになってください。」
大切な人を残して明日には命を落とす人とは思えない、笑顔で並ぶ特攻隊の写真もありました。
死の直前まで彼らが想い願ったのは大切な人の幸せでした。
今回の旅で、当時を生きた特攻隊の 全力で自分の役割を全うする精神の強さや、今の日本の平和がいかにしてあるのかを学びました。
私たちも改めて心をひとつにし、それぞれの役割を果たし、多くの人の幸せをつくり続ける工務店でありたいと思います